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米軍の施政権下で組合を結成

サンフランシスコ講和条約によって沖縄の駐留軍労働者は、本土の駐留軍労働者と明確な違いがありました。身分についても米軍の直接雇用でありましたし、とりわけ指摘しておくべき点は、労働組合のありようです。沖縄は講和条約が発効した1952年4月28日に日本政府から切り離され米軍の施政権下に置かれ、沖縄県民は「屈辱の日」と位置づけ、沖縄の駐留軍労働者も同じような宿命を背負うこととなりました。

沖縄の宮古島で戦後初の労働組合が1946年に結成されましたが、その年のメーデーは米軍の禁止命令により中止、1947年南部琉球軍政府は、労働組合の集合、集会、示威運動禁止を発令し、労働組合の動きを封じる対策をとりました。さらに沖縄の全労働力を掌握し、米軍政府が定めた賃金率が存ずる場合、使用者がこれを超えて賃金を支払うことやボーナスその他の特別の報酬を支払うことも禁止しました。組織的な労働運動も発生していませんでしたが、労働組合は許可制とし、軍作業及び公務関係における闘争行為を厳しく処罰することにしました。沖縄では米軍の基地労働者への敵視政策が実施されました。

国籍別による沖縄米軍基地の最低水準(1956年)

国籍 アメリカ人
1時間最低 1.20ドル
1時間最高 6.52ドル

国籍 フィリピン人
1時間最低 52セント
1時間最高 3.75ドル

国籍 日本本土人
1時間最低 83セント
1時間最高 1.03ドル

国籍 沖縄県民
1時間最低 10セント
1時間最高 36セント
資料:琉球政府労働局「資料 琉球労働運動史」(1967年)121頁

1953年には、琉球政府立法院本土法にならって、労働三法を可決したのに対して、米軍は布令116号(琉球人被用者に対する労働基準及び関係令)を公布し、軍関係労働者を労働三法の適用から外し、軍関係労働者の集団的労働関係を規制するものでありました。このように戦後米国統治下の沖縄では労働組合・労働運動は、“厳しく規制”され、日本本土で戦後復興のために労働組合・労働運動が“強力に推奨”されたこととは正反対の経緯をたどりました。
戦後の沖縄諸労働運動は、労働基本権をめぐる“弾圧”と“闘争”に明け暮れた長い年月だったことは過言ではありません。
 布令116号を改正して、駐留軍労働者に対して、団体交渉を認めたのは、 1968年4月23日、実に本土復帰の4年前のことであります。

さらに米軍は、全軍労が大量解雇撤回闘争を組むと、米兵らへ外出禁止令を発したため基地関係業者(サービス業)から“営業妨害”との激しい抵抗にあいました。
当時の沖縄は、米軍関係からの受け取りが、沖縄の対外受け取りの50%も占めており、まさに、“基地経済”そのものでありましたから、基地関係業者(サービス業)の強硬な“反発・反感”が起こったのも無理もないことです。
当時の全軍労闘争本部に詰め寄った基地関係業者が「“キラリと光る”もの」を腹巻きに忍ばせて一触即発の事態であったと述懐しています。(サービス業者がヤクザに泣きつき、ヤクザが組合に殴り込みをかけてきて、組合員は、レンガを投げて応戦した)「前門に武装米兵、後門に基地業者の闘い」という言葉に、当時の駐留軍労働者が直面した状況を窺い知ることが出来ます。
このように絶対的権力「米軍」と対峙し駐留軍労働者の権利回復に努め、賃金・労働条件を一つ一つ改善させ、現在の基地労働者があるのは労働組合「全軍労の誕生とその熾烈を極めた闘い」があったことを知って頂きたいと思います。

沖縄の主要な米軍基地施設

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